此処は、人の道の迷子になってしまった『月の雫』が蹲っている場所です。 『月の雫』の心の葛藤の物語と詩を、絵と写真を添えて綴っています。
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培養液(2)
『月の雫』と言う生き物の培養液(28-2)
(『月の雫』、以後、雫と省略)
保母さんと女医さん
積もり積もった過労が影響してか、雫が3歳になった頃、雫の母は弟を生んだ後体調を崩し、それから雫が小2くらい迄何度も入退院を繰り返した。
つまり子供にとって一番大事な幼少女期時期に、一番身近な人として脳に記憶するべき母の存在が、雫には欠落しているのだった。
3歳頃の写真が数枚あるが、その中に母や父に抱かれた写真はなかった。
たった一枚、雫が胸に抱き上げられて写っていた写真があったが、抱いているのは保育園の先生だった。
保育園と言うより託児所と言った方が正しいか。
雫の幼い頃の記憶に残っている人といえば、母や家族ではなく、この保育園の二人の女先生と、喘息の治療などの為に頻繁にお世話になっていた村外れの診療所の女医先生だった。
雫の母は入院してからも、時々帰宅する事があったが、おそらく一時的な自宅療養のためか何かだったのだろう。あまり子供とは接していなかったようで、雫には母と顔を合わせてスキンシップをした記憶がなかった。
母の病が完治し退院して家に戻ってくるまでの(小2くらい)家族との時間より、この保母さん二人と女医さん、三人の女性と過ごす時間の方が多かった。
保育園時代は、親の迎えで殆どの子供が帰宅してしまい、いつも雫は最後の一人になることが多かった。
そしてポツンと一人折り紙をやっているそんな雫を迎えにくるのは、母でも父でもなく、田畑仕事を終えた祖父母だったり、弟子だったりした。(父は職人で3~4人の弟子がいた。培養液(1)参照)
その迎えの時間まで、とてもよく雫の面倒を見てくれたのが雫の記憶に残る保母さんのうちの一人だ。
でも、その保母さんは進級と同時に担当クラスが変った途端、雫が呼びかけても忙しそうに通り過ぎて行く様になった。
彼女が、「ごめんね。」と右手で雫を払うように足早に通り過ぎて行った映像が雫の脳裏に焼付いた。
雫はとても淋しい気持ちを覚えた。
物分りのいい雫は、彼女が新たに面倒を見なければならない下のクラスの園児たちの先生で、自分の先生ではなくなったことを察した。
もう迷惑かけてはいけないのだ、頼ってはいけないのだと子供ながらに悟った。
雫はしょっちゅう、保育園の敷地内にあった社宅にも入り浸っていた。
日曜ともなると訪れては、日本人形を作る手芸好きの副園長先生の手仕事に夢中になった。
手芸に使う布の美しさも魅力だった。
雫が帰るとき、その先生は、決まって、人形の着物に使った美しい和布のハギレを分けてくれた。
和服や帯用のその美しい布を貰えるのがとても嬉しかった。
でも、やがてその保育園は移転し、好きだった先生も何処かへ行ってしまった。
もう一人、診療所の女医先生には、小学校へ入るまでも入ってから暫くの間も、ほぼ毎日お世話になっていた。
ちょっとした天候の変化や体調の変化で喘息の発作を起こすし、すぐ風邪を引くので、吸入やら注射やら薬やらでほぼ毎日お世話になっていた。
小学校に上がってからは、治療に通ううち、雫はそこで患者さんの薬を包んだり(頓服のように、10センチ四方くらいの四角い紙で薬を包んでいた)、煮沸した器具を専用ピンセットで滅菌ケースに移す手伝いをしたりするようになった。
先生は何かお手伝いする度にとても上手だと褒めてくれた。
長い時間そこに纏わり付くように存在しても、雫のことを邪魔にすることもなく、自分の子供のように接してくれた。
雫もそんな先生を母親のように慕い、すっかり甘え、特別な心象を抱いていたと思う。
雫の存在をしっかりと受け止めてくれる人といる、診療所での時間は楽しかった。
その映像は今でもはっきりと思い出せるのだった。
ある時、診療所の奥の空間に女医先生の生活が存在することを知った。
家族がいて雫より小さい子供がいて、先生はその人達のお母さんであり、雫の母親ではないのだと気付いた。
それから雫はあまり長居しないようになった。
その数年後、村が開けてくると、町病院への交通手段も増え、診療所は閉鎖され、その女医先生も何処かへ行ってしまった。
(続きます)
TLTLE:命は混濁する培養液の中
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