忍者ブログ

此処は、人の道の迷子になってしまった『月の雫』が蹲っている場所です。 『月の雫』の心の葛藤の物語と詩を、絵と写真を添えて綴っています。

   
カテゴリー「地の部屋(雫の人間考)」の記事一覧
  • « PREV
  •  | HOME | 
  • NEXT »

親は無くとも子は育つ

反吐(へど)が出るほど大嫌いな言葉だ。

子育てに対する至らなさ、ある意味、親としての無責任を正当化した言葉。
働く事と生きる事を美化し(尊いことではあるが)
子供のパーソナリティーを蔑ろにしたにも関わらず、
それを言い訳にして自分が子供に行ってきた愛情の放棄行動を正当化する言葉。

これほど子供に対して、親として無責任な言葉はないと思う。

こういう会話がなされている場に否応なしに居させられる時、
込み上げてくる反論したい怒りを呑み込む苦しさと、
それを抑えつけて作り笑いをする自分への嫌悪と憤り、
そんな親の前で一生懸命いい子でいる子供の、
言葉にできない心の叫びを察しているかもしれない私、
生き易い自分に近付くほど、世の中の鈍感人間達にいつ爆発するか、
最近突然現れる、周りを敵に回す自分の〈素直〉という感情の暴走が、怖いです。

天使の顔をした真実や正義は、実は世の中を生きるには〈悪〉なのではないのか?
周りに合わせて生きる〈悪〉の方が、世の中を生きるにはずっと生き易いのではないのか?
 
ならば私がパーソナリティー(自我同一性)を獲得することは危険な事なのではないのか?

生まれてから人間としての環境が固定し過ぎた今、
そういう私によって悪影響を与えられる周囲が確実に存在する今、
私は私らしくなってはいけない、最早手遅れかもしれない、
私はそんな結論に辿り着こうとしています。
 
 

 
 
TITLE:鉄格子の部屋から裏の月と表の萩を見る

 

読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 人気ブログランキングへ  

     ブログランキング・にほんブログ村へ

拍手[0回]

PR

成分と構成物質(月の雫の覚書)



これは月の雫の覚書です。
人間という生き物は一言では言い切れない複雑な性格や感情を持っています。

それは遺伝的に持って生まれたものもあれば、幼い頃の環境や教育によって組み込まれるものもあり、

そういうものが人間性を構築してしまう場合も多いと思います。


ここに『月の雫』の人間としての資質を分析したものを記します。
このようにご自身を分析してみると、見えなかった部分や隠れていた部分、
そこから新しい自分が見えるかもしれません。

それが前向きであることを祈ります。

私と言う人間を構成しているもの。
私の成分。                                        

【祖父から学んだ事】
開拓精神、発掘力、斬新な発想、独創性、創造、探究心、
緻密な計画性、勇気、決断力、独立独歩、
非依存、自立、質素、倹約、謙虚、寛容、寛大、
理解力、聴く耳、受容性、包容力、責任感

【祖父から植えつけられた物】
正義感、無欲、忍耐と我慢、非宗教心、頑固

【父から学んだ事】
発想力正当なことは見当たらないが、敢えて挙げるなら、祖父から引き継いでいる発想力くらい
闘争心(人を蹴落としてでもという思想)しかし幸いというか、学んでも身に付いてはいない。

不当なことではあるが、策略、巧妙性。
父曰く、「世の中、正直者が馬鹿をみる、ずる賢く要領よく立ち回れ。」
常々そう言っていた父も、悪人でなかったのが救いか
しかし、学んでしまった私(大嫌いな私)は、時々こういう行動をとる。

【父から植えつけられた物】
・自己満足なプライド
    そのことから私自身が見出した結論自己満足なプライドは人を孤立させる。
    そこからの生産性は低い。無いに等しいかもしれない。

・物事の強要
    そのことから私自身が見出した結論物事の強要は人を萎縮する。
    強要されることにより信頼が崩れれば不審が募る。望む物(欲しい物)は遠退いて行く。
    
・劣等感 
    私の魂は劣等感に侵食されている。

・虚勢(見栄)
    いつも自分の周りの才能あるものに脅え、自分の誇りが消滅することを懼れている。
    自分の中に確実なもの(自信)がないことの不安。
    ・そのためのずる賢さ
    ・超依存性

・忍耐と我慢

・頑固、独断的思考、批判的思考、偏見、拝金的物欲、非計画的突発行動       

【母から学んだ事】
長いものには巻かれろ。
事を荒立てても何の得にもならない。
見て見ぬ振り。
ポーカーフェイス
客観視

【母から植えつけられた物】
非情、冷淡

【学ばなければいけないのに学ばなかったもの】
奉仕、リーダーシップ、積極性、貢献、向上心、慈悲、思いやり、家庭性(母性)、親切心
自己犠牲、人を信頼する気持ち

【自分自身で身に付けたもの】
柔軟性、孤独

【身に付いてしまったもの】
優柔不断、意志薄弱 幼稚性、中立、受動性、危険危機回避、自分自身の偽装、自制心
虚偽の人格による自己防衛、自己拘束
臆病、消極性、猜疑心、怠惰心、軽率、
支配性、傲慢、我欲


【祖父から学んだ事】と【父から学んだ事】に共通している事は発想力、
そして【両方から植えつけられたもの】は忍耐と我慢だ。
一番人間らしくあるために学ばなければいけない、自己犠牲や奉仕や思いやり等、
心の在り方に影響する大事なものが尽く欠落している。

祖父や父母から学んだものは対極にあるようなものばかり。
なのに全てにおいてその結果、私が身に付けてしまったものは中立であり、
つまりどちらにも寄れず双方を共有しながらの、無の立場であるように思う。

×、白と黒とグレー、正義と悪と中立、その三様の自分が同居している。
三様の行動や思考があるなら、どんな物事も乗り切れそうに思われるかもしれないが、
結果的には私自身は、真の私の不在に戸惑い、混乱するばかりである。
相反するものとウヤムヤにしようとするものが私の中に混在して、その居場所を共有している。

時々感じる自分に対する不自然さや違和感は、そのせいなんだろうか。
こうして見ると、中身はぐちゃぐちゃだ。
ここまで共存してきたら仕方ないかなとは思う。
最早、生きることにしがみ付こうとは思わないが、せっかく貰った命なら
(欲しいと言った憶えもないのだけれど)、最後まで見てみようか
こんなつくりの自分の人生とやらを。



TITLE:私の成分と構成物質


読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 人気ブログランキングへ  

     ブログランキング・にほんブログ村へ

拍手[0回]

ACの認識


メンタルクリニックへカウンセリングに通っているある方のブログに、
ACに関するある著書による診断テキストとその方の回答が記されていた。
結果、その方と私自身の回答が9割強一致していた。

あえて違う所と言ったら、その方の母親は病的に過干渉だが、
私の母は感情がいたって希薄で冷淡で人に関わらない、と言ったところだろうか。
私が物事の相談や判断を仰いでも「お父さんに聞きなさい」が常だった。
彼女は『傲慢な夫には逆らわない堅実』を知ってか、自分の意見を言った事がない。
仕方なく父に振ったところで、結局私の殆どの主張は受け容れられることはなく、
逆説的な父の意見に強制的に従わされ、要求や要望は却下された。

私とその方はテキストの回答はほぼ一緒なのに、育った環境は似て非なるものなのだ。
その方(Hさんとする)は、テキストにその環境の事例として、病気の時の事を挙げていた。
Hさんは、病気の時、ヒステリックなほど過干渉な母親に、
四六時中ののしられ非難されわめかれ、干渉されるのだという。
日常がそうらしいのだが、「病気の時くらい放って置いて欲しい」と、
母親の病的束縛に縛られた苦しみを嘆いていた。
私はと言うと、熱を出して寝込んでも、母を含め農作業に負われる家人達には放っておかれ、
田舎の人気のない大きな屋敷の中にポツンと寝かされていた。
いつも放っておかれた気がするが(放任とは違う)構って欲しい時も構って貰えなかった。
いつのまにか仕切られた空間に人と関わらずに一人でいることが、当たり前になった。
孤独慣れだ。慣れてしまって、そちらの方が居心地が良くなった。

病気の時と被るが、アトピー或いは喘息の対応でも、Hさんと私は真逆の対応を受けている。
不可思議な親に翻弄されて…。

「褒められる」と言うことについては、人事と思えないほどよく似ている。
頑張って良い結果を出せば出すほど否定され、逆に茶化されたり非難されたり、
更に高みを要求され、何よりも「褒められた事がない」と言う状況は同じだ。

ACの(疑いのある)人は、幼少期などにアトピーや喘息を患っている人が多く、
物事に飽きっぽいこと、常に『~しなければならない。~であるべきだ。』という、
義務的な観念を抱いていることも特徴だそうだ。
これを知った時に「ACの自分」を認識した。

それと、こうしてこの類の色々な方のブログを読むにつれ気付いた事がある。
大抵の方が、何らかの芸術的センスや才能と感性を持つがために、
世の中を生きる上で、物事を必要以上に客観視できてしまったり、
他人や自分の心の細密な分析を無意識にしてしまうのではないのだろうかということ。
そういう思考により次から次と話題が変わっていったり、内容が散漫だったりするようだ。

それと他にも思い出した。(この流れが散漫なACの特徴か?)
関係あるかどうかは分からないが、世の中電話依存症が多い中、
私は異常なほど電話恐怖症だ。
漠然と電話が苦手なんだと、自分自身あまり深刻に捕らえていなかった時、
電話業務に就いて、ノイローゼになった。
毎晩電話が鳴り響く夢に魘され、直に聞える電話の音だけならまだしも、
遠くの他家の電話音や似通った音にまで、過敏に反応し恐怖を覚えびくびくしていた。
頭の中で常に電話がなっているような強迫観念に縛られていた。
あれから電話業務が出来なくなり、今も電話にはなかなか出られない。
原因が何なのか未だによく分からない。

携帯電話のメールはまだ大丈夫だが、往復3回位の返信で終わらせたくて、強制終了する。
でもHさんと自分の性質がとても似てて、読みながら随分共感させられるところが多くて驚いている。

今までは、自分だけが異質だと諦めていたけれど、
同じような人がいると分かっただけでほっとすると知った。

ただ、ほっとして受け容れていけばいくほど、離れて保っていた人への依存の距離が縮まって、
私の場合、私が今まで疑問も辛さもなく受け止めてきた寂しさや孤独と言うものが、
逆に辛く生き難い障害へと変わっていくようで不安になる。

受け容れること、回復する事で自分が逆に壊れていくようで怖い。
私が一番、自分表現の手段としている、『詩を書くこと』、『絵を描く事』の基盤にある感性は、
長年ACと共生してきた自分が存在する事で成り立っている。

ACじゃない私に、この自分が一番傾倒している自己表現の、
源となっている感性はこのまま存在するのか?
『自分』だと認識していた、一番大きい部分が消滅するようで怖い。





0adff09064c017343acb60c83d8274a6a.jpg


TITLE:認識の入り口








読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。


 人気ブログランキングへ  

      ブログランキング・にほんブログ村へ




拍手[0回]

太陽と月


太陽と月はどちらが正しいの?

太陽は表で月は裏
太陽は陽で月は陰
太陽は明るく逞しい 月は闇に身を潜める
太陽の下、天使が踊る 月の下、魔物が笑う
太陽の恵み 月のまやかし
太陽のような子 月のような子

太陽と月を漠然と比較したならば、世の中に無条件で賞賛され好意的に受け入れられるのは太陽だろう。
ここで、「太陽だって日照りの干ばつをもたらし…」とか、「月だって控え目でミステリアス…」等という、逆説的な批判と同情のフォローは脇へ置いておく。

正しい?と訊くのは何だかおかしいと思うかもしれない。

しかし単純にこのそれぞれの特色を、人に当て嵌めた時、思考を止めて本能的に或いは直感的に、人が好感を持つのは太陽のような人だと思う。
太陽に掛かる形容は何かと正当で、強引ではあるがその結論から答えを導くと、書き出しの問いは太陽が正しいということになる。

しかし雫にとって、上に挙げた太陽から連想するイメージは、どれも眩し過ぎて重い。
何事にも喜怒哀楽がハッキリしていて考え方の単純明快をモットーとする人、ポジティブで明るく朗らかな人、持って生まれた特質(人徳)だけで努力もなく人に受け入れられていることを自覚していない人…etc.、こういう人を見ると、雫は無性に苛立った。
雫はそういう人に同じ空間に居て欲しくないと思い、胸を押さえ付けられるような息苦しさを感じた。
と共に雫自身が同じ空間に居られなくなるほどの、嫌悪感を覚えた。

(のほほんと幸せそうに見える人に対して無性に腹が立って、「お前らみんな死んでしまえ!」という思いに駆られ、突発的に殺人を起こしてしまう、近頃の通り魔と同じ感情かもしれない。)

雫が捻くれているだけなのか、脳神経の繋ぎ目に不具合でもあるのか、生育環境によって形成された性格的欠陥なのか、環境ホルモンとやらの外的影響なのか、それとももともとホルモンなどを調整する機能に問題のある身体的欠陥によるものなのか…。
挙げたそれらに原因はないとは言えないが、問題なのは、太陽と月の二つのタイプを比較した時、雫は月が好きで、太陽になりたいとこれっぽっちも思っていないことだろう。


いやそれ以前にもっと根本的な問題はそれぞれのタイプを独立させるという基本的なところを、世の中が受け入れていないということだろうか。
何故なら世の中は『太陽ありき』から始まっている。
地球そのものが太陽ありきで存在しているから仕方のないことなのかもしれないが…。

しかしながら、月の引力が生命に大きな影響を与えているという事実もある。
月タイプが自分の存在を卑下する理由はないはずである。
もっと堂々と世の中に存在すればいいのだ。
こういう思考回路も、月タイプの雫だから出来ることであり、太陽が人の行動や外面を象徴するなら、月は精神思考の内面の象徴、つまりメンタル面のスペシャリスト言えるのではないだろうか?

月タイプの存在にはすばらしい役目がきちんとある。
こうして考え悩むことが出来るのは、ある意味そういう人にしかできないりっぱな能力ではないか。
例えば楽観的単純思考の人に「悩め」と言ったところで無理だろうし、目の前の悩める人の心は到底見えないだろう。

太陽タイプへのヒガミ根性だと言われるかもしれないけれど、こんな風に正当化しないとしずくは世の中に対応して行くことができない。
そうすることが現実世界で雫が成り立ち、生きていける理由であり方法である。
雫には今はそれしか思いつかないのだ。

雫が世の中で行きやすくなるためには太陽にならなければいけないのだろうか?
太陽になることを目標に日々を生きるべきなのだろうか?
それとも月である自分を受け入れて生きるべきなのだろうか?





a9ba9794de90c150804d628b9c0fc1bb.jpg

















TiTL:太陽の人と月の人





読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

   人気ブログランキングへ   ブログランキング・にほんブログ村へ  


 

拍手[0回]

人は生まれる場所を選んで生まれてくる?


ある分野で有名な方が、随分前に彼の番組の特番で言っていた。
彼曰く、
『よく親や世間に向かって、「生まれて来なければ良かった」とか
「生んでくれと頼んだ憶えは無い」とか「子どもは親を選べない」とか言う人がいるが、
皆あの世からちゃんと生まれる場所を決めて親を選んで生まれてきているんです。』
と、そんな内容のことを話していた。

「?そうなの?」私の頭の中に、
………編みかけのセーターを広げるように持ち上げてじっと眺め、
「もしかしたらこの糸を選択した根拠から間違ってる?
いや、待てよ、デザインのコンセプトから見直し?』と呆然としている自分………が浮かんだ。
(私の場合セーターだけど、建てかけのビルや家だったら、かなり落ち込むなあ。)
作らされている(依頼主がいる)と思っていたものが、実は、自分が決めた事だったとは。
自分で選んでおきながら、「おぎゃあ」と生まれ落ちたその時、
記憶が無いのをいいことに(稀に有る人がいるらしいけれど)
ちゃっかり責任転嫁していたということか?
「私が生まれて来たかった訳じゃなくて、あなた方夫婦が私を呼んだから来て上げたのよ。」って。

そりゃあまあ、私は基本的に運命主義者というか、自分の前に現れる様々な人との出逢いや、
立ち塞がる困難や災難の壁が、それは自分が神に課せられた人間的レベルアップ
(この場合内面的に)の為の障害なのだと、今の私に必要なことを学ばせようとしているんだと
受け入れることにしてはいる。
が、この世に生れ落ちる時から既に何かの目的を持って【必要な学び(修行?)】を選び)、
あの世からやってきてるということ?

あの世の私…、何を根拠に何を目的に何がしたくて、
あの環境のあの男女(両親)の元を選んだんだ?
6歳くらいの時にはもう、選択肢を後悔していたんだけど。
「○○ちゃん家の子に生まれたかったなあ。」
「私のお父さんお母さんが、○○ちゃん家のお父さんお母さんだったら良かったのに。」って。
私の育った環境は決して悲惨じゃないし、どちらかと言うと恵まれていた方だと思うが、
他所の家庭とはどうも何かが違ってた。
親の考え方や思想がどうも常識と違ってた。
地味に、非常識(常識との境界が難しいけれど)な思想と教育環境の中で
有ってはいけない思想をサブリミナルのように混ぜられながら調合した中で、
私と言う生き物が培養されたように思う。
今思うと、潜在意識に親の名言ならぬ迷言が座右の銘としてインプットされてたような…。

私は結構その方の特別な能力を認めてる。
(横にいるお釈迦様のような方は、沢山の経験と知識と多少の第六感で、
その方の言葉表現の足りない部分をサポートしているのだと、私は思っている。)
だから、「自分が、両親を選んで生まれてきたんだよ」という言葉を、頭から否定できない。
なんとか、この言葉を否定するも納得するも、ちゃんと考え至った所で、答えを判断したいのだ。

いい加減な男女の間に生まれてきて、あっという間に命を絶たれてしまう子が、
その人間達(男女)を親として選んだ意味は?
地獄のような暴力が蔓延り荒んだ環境で生活する人間達(男女)を、親として選んだ意味は?
いずれその矛先が生まれ落ちた自分に向けられるだろうに、なぜ?
子どもが欲しくて欲しくて堪らない、愛情溢れる人間達(男女)がいるのに、
どうしてそこへ真っ先に行かない?選ばない意味は?
私が何か根拠や理由や目的があってあの親を選んで生まれてきたのだとしたら、
やはりその真意をはっきりしたい、知りたいと思う。

セーターや家を、作らされていようが作っていようが、そのモノ(人生)に愛着と誇りを持てたら、
きっと、充実した良い一生だったと思えるのかも知れない。
そのためには、自分の浸かってた培養液の分析が必要に思う。
ゆっくりマイペースで紐解いていきます。


そしてこの物語のカテゴリー《月の部屋1》の
培養液(1)~(28)が始まりました。




20087117726.jpg






TITLE:選択






読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 人気ブログランキングへ  ブログランキング・にほんブログ村へ


 

拍手[0回]

出産、子どもを手に入れるということ【後編】




私はいくつか嫌いな言葉がある。

それは「子供が欲しい。」と言う言葉、
「子供が出来た。」と言う言葉、
やんわりとした言い回しだが「子供を授かった。」と言う言葉。


前回、「子供が欲しい。」と言う言葉に対しての思いを書いた。

次は「子供が出来た。」と言う言葉。
ここで言う「子供が出来た。」は、命を預かる責任を肝に銘じ、待ちに待った子供を身ごもることが出来た、
という意味ではない。
巷でよく言う、『出来ちゃった婚』でよく耳にする初めの言葉である。
考えてもいなかった、思いもかけなかった、
つまり命に対する何の準備も責任も覚悟も考えていなかった時に出る言葉だ。

世間では芸能人などがやたら堂々と婚前交渉の予想外な結末(妊娠)を、
「命は尊い」という美言でくるみ、あたかも正当なことのように公表する。
一般人は洗脳されて正しいステータスだと思い込み、
責任を考えない子作りに対する罪悪感が薄れる。

私がそこに導かれた命なら、私は産んで欲しくない。
『命は尊い』なんて、軽々しく言って欲しくない。
その子供の先の未来がどうなるかなんて、誰も知らないくせに。

私は『出来ちゃった婚』は認めない。
自分に対してもであるが、自分の子供に対してもである。
私自身は絶対に『ない』と言い切る。
けれど、もしも自分の子供が、常日頃そのことを訓じていたにも関わらず、
そういう事態になってしまった場合、受け容れない分けにはいかない。

だが、もし、そうなってしまった場合、私はしっかり考えさせるつもりではいる。
予定してないのに出来ちゃったとか、出来ちゃったから仕方なく産んだとか、
本当は要らなかったとか、橋の下で拾ったとか言う捨て子的比喩や、
最悪、産まなきゃよかったとか、決して冗談でも子供に言ってはいけないのだということを。

その言葉は、子供が自分の存在を否定する引き金に為り得る危険な言葉である。
その言葉を切欠に、子供は自分の存在を否定し始める危険を含んだ言葉である。
その言葉だけではないかも知れないが、十分切欠には為り得る恐ろしい言葉だと思う。

「子供が出来た(できちゃった)。」と言う言葉、時と場合によっては簡単に使ってはいけないと思う。


「子供を授かった。」(コウノトリが運んできたともいう。)
この言葉も違和感がある。
言葉の前後に、子供を受け容れる条件が揃っているにも関わらず子供に恵まれない、
という事情あっての流れで使うのは構わないと思う。
ただやはり、どこか、自己責任を曖昧にして、神様なるものに責任転嫁しているようで、
いい気持ちはしない。

ただ、命を受け容れる心と人間性の準備がきちんと出来ている夫婦に使われることが多いのが、
まだ救いかと思う。


『人は子供と共に成長する』や『子供に親にしてもらう』や
『子供が親を人として成長させてくれる』は、よく言われることだ。
子供を育てるに値する条件を備えた大人ならば、さらに成長するから、
それは人としてすばらしいことだと思う。
しかし、条件を満たしていない大人が、『子供に親にしてもらう』なんて、ふざけるな。
子供はあなた達大人を育てる道具ではないし、
そんなものにされては、子供にとってはいい迷惑だ。


子を産み育てるという事。

無責任な恋愛の衝動の果てや、大人の所有物的思考の果てに作られてしまった命、
全てがそうとは言わないが、そこに様々な悲劇を背負わされた子供が生まれる事は、
否定できない事実だと思う。




追記:
私は淘汰されるはずだった自然の摂理に逆らう、
医学に頼りすぎる延命治療やモルモットじみた一部の救命にも疑問を感じている。
ただの人間のエゴではないのか?


これらはあくまで私の勝手な意見であって、皆色々な考えを持っていると思う。
読んだ方は、くれぐれも感情的にならないようにお願いしたい。






59dc0df03ecdb7286d227e3bdca06d4b.jpg














TITLE:出産という責任





読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

   人気ブログランキングへ   ブログランキング・にほんブログ村へ
 

拍手[0回]

出産、子どもを手に入れるということ【前編】




私はいくつか嫌いな言葉がある。

それは「子供が欲しい。」と言う言葉、
「子供が出来た。」と言う言葉、
やんわりとした言い回しだが「子供を授かった。」と言う言葉。


この3つの言葉の言い回しには、どれも、子供の側の意志が存在しない。
発言の何れにも、子供を作る機能を手に入れた大人という人間の、
自分勝手で無責任な意味が存在する。

「子供が欲しい」って、恋愛真っ只中の男女は結構簡単に口にする。
「あなたの子供が欲しいわ」快楽の中で盲目の女は、
愛する男の子供ならきっと一生愛していけるに違いないと錯覚する。
未来ほど不確かで曖昧なものはないというのに。
育てられるだけの自分自身の成長も環境も、条件は何も満たしていないというのに。

きちんと子供を育てられるだけの人間性や生活、資産を保有しているキャリアウーマンが、
シングルマザーを覚悟して「子供が欲しい」と言うのは、まだ許せる。

だが、恋愛の衝動に駆られて、メクラ状態で子供を作るなど、冗談じゃない。
そんないい加減なことで、この世に引き摺り下ろされた命は、たまったもんじゃない。
一生幸せの中で成長していける保障は何もない。
こういう衝動的に作られた子供に限って、物心付いてあたりを見回すと、
愛のない場所にポツンと取残されていたりする…あまりによくあること。

子供が欲しいというなら、その前に、
子供を育てるだけの責任を自覚してほしい。
せめて、生まれて来てよかったと思える人生を与える義務を自覚してほしい。
生まれてきた命が自分の人生をその足で歩き始めるまで、
支える責任があるということを自覚するべきだ。

それが出来ないなら、100パーセント避妊するべきだ。
子供は物じゃない。
『欲しい』と言って簡単に作るなと言いたい。
あまりに命の持つ意思に対して、無責任すぎる。


(続く)






1a15ffc9b813eed00c665b607ea2520e.jpg

















TITLE:出産という覚悟








読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

   人気ブログランキングへ   ブログランキング・にほんブログ村へ



 

拍手[0回]

性別の分類と認識(3) 

【性別の分類と認識(1)(2)(3)】の内容は、人によっては偏見的で不快に感じられると思います。 
先ず、愛はセックスが全てと言う認識の方は読まないほうがよろしいでしょう。あまりお勧めしません。 



性別の分類と認識(3) 


そして更にわかったことがあります。 
前述以外に更に2種類あるということ。 (性別の分類と認識(1)(2)を参照)


5.男性も女性も好き。これは人間が好きということなのか? 

6.男性も女性も嫌い。人間そのものが嫌いということなのか? 



83ec17ed5aaabea7c61cb8bceb75c97b.jpg
TITLE:性別の分類と認識(3) 


この世に生まれ出でて、選択できない環境で、好む好まざるに関係なく様々な体験をし、運命に翻弄されます。そうして生きる中で自分を形成し、それぞれの愛を選択します。 

頭を整理しました。 
で、私は結局どこに分類されるかというと…。 

時々『女は男が好きだろう』とか世の中『所詮男と女』とか下世話な価値観でものを言う人がいます。云十年も人生を生きてきたと言うのに未だ人間に対する偏見が大きく、男尊女卑思想に凝り固まっています。更に酷いのは頭の中には性欲しかないのかと思われるような人間も珍しくありません。人生の先輩なのだから、或いは少なくとも私の知らない過去の時間を生きて来たのだからと言う思いで、尊敬に値するものを何とかその人間に見出そうと思うのですが、やたら自信満々にそういうことを口にされると、だんだんと情けなくくだらなく思えてきます。あまりに低俗だと憤りさえ込み上げてくることもあります。 

それでも常に、一人の人間としての魅力を見つけ出そうと意識して人を見るよう努めています。そうしているつもりです。勿論、異性なら恋愛感情と言うものに連動していくこともありますが、私の場合、極端なことを言えば、『男』というだけで、イヤもう少し条件を付けて『いい男』というだけで、目にハートマークが現れることは決してありません。そして、『男』或いは『女』と初めから識別した目で見るのではなく、性の意識が取り払われた人間同士としての付き合いがしたいと思うのです。 

でも、どんな見方で見るかはその人それぞれの価値観によって変わるものであり、それこそ『世の中は男と女』と言う見方に基準を置き、そこを物事の始点とするならば、私みたいな考え方の人間はそれこそ人として未熟者で低レベルに他なりません。そして特に一部の、愛が全てと言う愛情信仰者からすれば、「幼少期に愛情なく育てられて、愛に対して卑屈になっているんだろう?」と軽蔑されかねないでしょう。寧ろそういう目線で判断すると、こういう見方をする私は異常で欠陥者なのです。 

しかしながら、確かにその要因はあり、強ち否定はできません。今の私は、事実、愛を求めてはいないし、無くては生きていけないモノは別のところにあるのです。 

で、私は結局どこに分類されるかというと…。 
世の中に順応できる能力を持った⑤のタイプです。なまじ世の中に順応できる能力を持っているから、本当の自分(グレイの⑤の自分)を上手になだめすかして⑤以外の他のタイプの振りをし、本来の⑤のタイプの自分をどこかへ閉じ込めてしまっていたのだという気がします。 

今まで、ずーっと④のタイプだと思ってました。でも何かが違う…。気持ちが通じ合い充実した時間の中でコミュニケーションがとれても、喜怒哀楽の『喜』&『楽』が湧いてきませんでした。書物を読むように新しい情報を手にしたに過ぎず、表面上の『喜』&『楽』の感覚はあっても、人とのふれあいやコミュニケーションに対しての『喜』&『楽』がないのです。感情は『無』の状態です。とても事務処理的に、半ば、生きていくための情報を得るという義務のように人とのふれあいを取り込んでいるのです。 

振り返って考えてみると、恋愛も、自分が成長するための必要な情報や体験を身に付けるために、義務的に自分に課していたのを思い出しました。○○の目的のために恋愛をしなければならない。そのために恋愛対象を探す。恋愛という行動スイッチを入れる…。おかしいですね。『一生』というストーリーを面白くするために、この辺に『恋愛』の章を、この辺に『冒険』の章を入れてみるか…。常に冷静に見ている執筆者か、映画監督のような感覚です。そういえば、子ども時分、劇をやる時は、自分は何かの役を希望していたにも拘わらず、気付くと演出&監督を任されていました。小規模ですが、人生の1ピースの中で既にそのような事をやっていたと言うわけです。 

話が逸れてしまいましたが、もしも人間愛がテーマ(おそらく)の『ゲゲゲの鬼太郎』の世界なら、人間嫌い妖怪の私は森の奥へ追いやられるか退治されることでしょう。人間世界はみんな仲良く平等と言いつつ、同一思考の多勢が仕切る、差別だらけの世界です。 


えーと、自分の頭の中では分析が済んだので、以上で、このテーマについては終わりです。この様な取り留めのない雑記にお付合い頂きありがとうございます。







読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 にほんブログ村 小説ブログ ノンジャンル小説へ       人気ブログランキングへ

拍手[0回]

性別の分類と認識(2) 

【性別の分類と認識(1)(2)(3)】の内容は、人によっては偏見的で不快に感じられると思います。 
先ず、愛はセックスが全てと言う認識の方は読まないほうがよろしいでしょう。あまりお勧めしません。 


性別の分類と認識(2) 


4種類を改めて書き出しているうちにふと疑問が湧き、 
あることに気が付きました。 (性別の分類と認識(1)を参照) 
実は4種類じゃなく6種類だということに。 


どういうことかといいますと、こういうことです。(青の人形群2段目から3段目) 

3. 
(1)男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、 
   女性の体になりたい、男性の体を持った男性。(男の肉体に女の精神です。)→の② 
(2)男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、 
   男性の体が好きで、本人も男性の体で満足している男性。→の③ 

(1)の場合は恋愛感情を除けば、好意的に女性と接する事ができます。 
   寧ろ女性の集団の中に身を置く事に安心感さえ抱きます。 
(2)の場合は女性そのものが嗜好外であり、嫌悪すら抱く場合が少なくない。 
   つまり女性の存在そのものが受け入れられない、要は女性拒絶型です。 

つまり(1)と(2)のタイプは全く別で、男と女と言う分類と同じ位、安易に一纏めにしてはいけないのです。 



そう考えると4のケースに於いても同様な事が言えます。(赤の人形群2段目から3段目) 
4. 
(1)女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、 
   男性の体になりたい、女性の体を持った女性。(女の肉体に男の精神です。)→の② 
(2)女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、 
   女性の体が好きで、本人も女性の体で満足している女性。→の③ 

(1)の場合は恋愛感情を除いて、仲間意識の基で男性と行動を共にしたいと切望し 
   ています。寧ろ男性の集団の中に身を置き、一人の男性として扱われたいと望んでいます。 
(2)の場合は男性そのものが嗜好外であり、嫌悪すら抱く場合が少なくない。 
   つまり男性の存在そのものが受け入れられない、要は男性拒絶型です。 


dd9bc129d777188a5eef3def08e5c246.jpg
TITLE:性別の分類と認識(2) 


思春期の頃の興味と一緒に混在する、生身の男性への嫌悪感など(それは『白馬に乗った王子様』、『宝塚の男役』、『少女漫画の男子』への憧れと言う意識で現れる)は、この意識の成長期に現れる発芽のような現象だと思われます。通常は日常生活での異性とのふれあいの中で一般的な形に移行していくのだと思います。 
しかし4の場合、様々な要因でたまたま方向を変えずに成長してしまった因子が脳や遺伝子に組み込まれてしまい、本人の嗜好とは無関係に所持されてしまうのでしょうか。 
そう思うと、本人の選択できないところで起こるのだからどうしようもありません。 


そして更にわかったことがあります。 
上記以外に更に2種類あるということ。







読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 にほんブログ村 小説ブログ ノンジャンル小説へ       人気ブログランキングへ

拍手[0回]

性別の分類と認識(1) 

【性別の分類と認識(1)(2)(3)】の内容は、人によっては偏見的で不快に感じられると思います。 
先ず、愛はセックスが全てと言う認識の方は読まないほうがよろしいでしょう。あまりお勧めしません。 




性別の分類と認識(1) 


どもの頃(小学校に入ってからくらい)から、男に生まれたかったと思っていました。 

女として授かったものに大分慣れ、その意識は心の奥底に仕舞い込んではいますが、 
根本にある意識はずっとずっと今も変わっていないと思います。 
ただ最近それは、子供の頃考えていたように単純に分類して既存の言葉に当て嵌めたり、 
ある一つのことに結論付けるには少々無理があるように感じるのです。 


今まで私は人間の性別は4種類だと思っていました。 
世間の殆どの人は人間は男と女の2種類だと言うでしょうし、それ以外は受け入れない人が大半でしょう。 
又受け入れる受け入れないに関係なく、2種類以外受け入れることができない人も多いでしょう。 
世の中は2種類以外を差別する人の方が多いと思います。 
しかし、「人間は男と女しかいない」というようなことを口にする人と接し、差別を耳にする度、私の心の中に不快な憤りが燻りました。 

何故なら私の頭の中では、普段人間に対して以下の分類が行われているからです。 


1.女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、男性の体を持った男性。→の① 
  (これが世の中で一般的に男性と識別される男性) 

2.男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、女性の体を持った女性。→の① 
  (これが世の中で一般的に女性と識別される女性) 

3.男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、男性の体を持った男性。→の② 
  (一般的にオカマさんとかニューハーフ、近頃はオネエマンと言われる方々。) 

4.女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、女性の体を持った女性。→の② 
  (一般的にオナベさんといわれる方と、レズビアン嗜好の方。) 



50cfa429d523d59b0986ac005122fa9f.jpg
TITLE:性別の分類と認識(1) 


4種類を改めて書き出しているうちにふと疑問が湧き、 
あることに気が付きました。 
実は4種類じゃなく6種類だということに。



 

 





読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 
にほんブログ村 小説ブログ ノンジャンル小説へ       人気ブログランキングへ

拍手[0回]

いと難しきかな人間業



 

人間の社会なのに、実際はあまり重要視されない人間性や人間関係。 

何事に於いても、『割合の高いもの=全体』となり、『割合の高いもの=全体=正当』としてまかり通り、それ以外のものは蔑視され疎外される風潮がある。如何にも極当たり前にその図式は日々の中に存在しているが、侮るなかれ、ストレスの根源は人間関係にあり。(少なくとも) 

今まで縁あって色々な人と出会って、ふと思ったことがある。 職業差別をするわけではないが、私は、ある職業の人達がどうも苦手だ。逆に、そうでない別の職業の人達とは気を使わずに素の自分でいられることに気付いた。(世間一般ではその逆の場合の方がごく普通のようだが。) 

苦手の根拠は何かと考えた時、こんなことに思い至った。苦手と感じるある職業に携わる大半の人達について、いろんな意味で私は言いたいことが言えない、私の伝えたいことが伝わらない、そして言っても理解してもらえない、そんな現状がある。 

そうなると自分を封じ込めて、理解して貰おうなどと思わずに、相手の思考を受信することのみに専念する。相手は気持ちよく自分を発信するわけだが、こういう相手に限って自分勝手にこちらのことを相性がいいと誤解する。実はこれが相当負担でストレスの根源のようである。 

苦手や嫌いなタイプの人と相対することをしなくて済むなら、又、せめて真っ向から本来の自分に接してもらえるならと思うのだが、それが成り立つほど柔軟な人間関係に恵まれているわけではないし、ともすれば、収入や今ある信頼を損ねかねない。嫌ならそういうタイプと接しなければいいといって繋がりを断ち切れるほど、世の中は甘くない。 

そんな不本意な人間関係から開放された時に、その反動で自分の中のストレスなるものが発生する。(開放されて良かった~、とはいかないようである。) 

このストレスは往々にして、こちらから発する電波を解析するシステムが相手側に備わっていない場合に発生することが多い。全く畑違いの分野の人に、別分野の専門的なことを、説明なしで実行させようとしているようなものである。 そして根本的な問題は、私に、相手に伝えようとする信号を相手が理解できる信号に置き換えるシステムが備わっていないということ。 

私に限らずどちらかといえば、多くの人がそうなのだと思う。自分の感性のシステムを止めるか、稼動レベルを落とすか、最悪パソコンに例えるなら新しいソフトを入れるしかない(この場合、人間なのでかなり負荷が掛かる)ということである。 

この際、送受信に関して、そういうシステムが全く備わっていないか(要するに、超自己中or超鈍感)、逆に高度なもの(才能、特技、本能、生甲斐として既に高い社交能力)を備えていたら、人対人の付き合い(人間関係と一言で収められない係わり合い)がどんなに楽だろう。いっそのこと極端に前者か後者のどちらかだったらいいのにと思う。 
そういう人が羨ましいと思う。 (前者も後者も案外世の中にはたくさんいる。) 

自分のストレスの発生のメカニズムとか考えたら、なんて面倒なやつなんだと思ってしまう。たまたま、ここまで連ねたことは人の内面から派生することだが、外見から派生する人間関係の問題も然りだと思う。でも、この問題の重要度は、同じようなタイプの人や、同じようなジレンマを抱えている人にしかわからない。 


私はこうして、たまに自問自答して、浄化するわけですが、何か吐き出したいことがあれば、お気軽にコメント頂ければ嬉しいです。『同調・共鳴』は、思った以上に重荷がとれて浄化されたりします。 
ただし、依存は別物なので注意した方がよいでしょう。




_DSCN8294_convert_20080713140906.jpg
TITLE:集合体







読んで頂きありがとうございます。
お手数ですが下のバナーをクリックして頂けたら光栄です。

 にほんブログ村 小説ブログ ノンジャンル小説へ       人気ブログランキングへ

拍手[0回]

   
Copyright ©  -- RETREAT~星屑と月の雫 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by The Heart of Eternity / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]