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此処は、人の道の迷子になってしまった『月の雫』が蹲っている場所です。 『月の雫』の心の葛藤の物語と詩を、絵と写真を添えて綴っています。

   
カテゴリー「月の部屋1(培養液)」の記事一覧

培養液(4)

『月の雫』と言う生き物の培養液(28-4)
(『月の雫』、以後、雫と省略)

母 


この頃、家の殆どの権限はまだまだ祖父にあり、大黒柱的存在も祖父だった。
家族は父を筆頭にして、何かを取り決める時も、行動する時も祖父に伺いを立てるのが常だった。
その状況はある意味、父が30歳をとうに過ぎたというのに、相変わらず自分を認めて貰えず親離れすることも許されない、できない、体の大きい息子のままの状況だった事を意味していた。 



あれは雫が小学校に入って暫くたったある日のお昼時だった。
雫は学校から帰るといつものように、奥の部屋で足を投げ出し、どこの子供もするように漫画雑誌などを広げ寛いでいた。
すると間も無く玄関が騒々しくなった。
何事かと数十センチほど開いていた引き戸の陰から隠れるように様子を窺っていると、父や祖母が沢山の荷物を運び込みながら玄関でごたついていた。
何やら誰かを引き連れているようだった。 


父が先に足早に玄関に上がった。
祖母が後ろを振り返ったまま話しながら靴を脱いでいた。
その後ろから色白の若い女性が入ってきた。
体が小さい訳ではないが、とても緊張した表情で、町娘のように小奇麗で、どこか存在感の儚げな女性だった。
その女性は入院していて、その日退院して来た様子だった。
それが初めて、雫がきちんと母の姿を認識した瞬間だった。
が、その時その女性に対して、子供が母に抱くような感情は湧かなかった。
その女性のよそよそしい姿と表情が、雫の脳裏に深く焼き付いただけだった。 


あの日、突然現れて一つ屋根の下で暮らし始めたその女性は、少しずつ家周りの畑仕事やお勝手仕事をするようになり、家の中に馴染んでいった。
しかし、雫は暫くその女性に呼び掛けることが出来なかった。
「お母ちゃん」と呼ぶことに随分と戸惑いと抵抗を抱き、最初に声に出して言うことにとても勇気が要った。
その時のプレッシャーが大きく、いつそのことばを言ったかは雫の記憶に残っておらず、出会いの場面だけがこびり付いた。 


そうこうして一ヶ月もしない間に、田畑仕事は病み上がりの母にもまともに任せられるようになり、総勢13人の食事の支度も大方が母の仕事となった。
勿論食事後の大量の食器の片付けもである。
大皿盛りが多く、取り皿程度の皿の数とは言え、13人もの食器の数は決して少ないものではなかった。
賑やかで慌しかった夕食の後、それとは裏腹にシンと静まった茶の間と台所で、雫と母は後片付けに追われた。 


陶器の茶碗や皿がぶつかり合う音が塊のように絡まりあって、台所だけ残したぼんやり明るい部屋の隅の照明の中で響いていた。
そこは雫と母以外、人の気配がなく、空気さえ固まるように深い静けさだけが二人を包んでいた。
何せ田舎の人の就寝時間は早くて、母が退院してきてからは雫が祖父と寝ることも極たまにしかなくなっていたこともあり、祖父母は夜8時前には既に寝ていた。
弟子達(当時住み込みだった、職人である父の弟子達)は食事後は早々に自分達の部屋に篭るのだった。 


半年もすると、雫は就寝前に祖父のお伽話を聞くことも、一緒に寝ることも全くなくなった。
祖父母が疲れるからと言う理由で、一緒に寝るのを母に止められたのだった。
これは母が雫と寝たかったからではなく、単に嫁姑の確執に絡むものだったようだ。
何故なら、母は、寝る時に雫が密着することを嫌い窮屈がり、「真っ直ぐ寝なさい」「もう少し離れて」といつも怒っていたから。
本人は軽い気持ちで言っていたかもしれないが、小学生くらいの子供にしてみたらこの状況は、自分の存在を母に拒絶されているという思いを植えつけるものだった。 


拒絶されることによって生まれた孤独や悲しみや不安は最初のうちこそは寂しく切なくとも、雫が自分の意思でそれに慣れるまでもなく、すぐに環境が変わった。
実は小1の中後半頃に母が再び半年ほど入院したのだった。
その時の入院は期間は短かく、小2にあがった時には再び一緒に生活してはいたが、雫の幼少時代はこんな風に母が家に不在な状態が多かったがために、雫が母と接した年月と体験はとても少なく、二人の間には、親子らしい関係は皆無に等しかった。
雫には、母に頭を撫でられたり抱きしめられたりという、記憶に残るほどの親子のスキンシップは存在しなかったのだ。 


そんな日々を送りながら、大家族と言う生活環境の中で雫は、いつの間にかいくつかの仕事を母から分担されて与えられていった。 



(続く) 



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TLTLE:あなたが私のお母さんですか?

 

 




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培養液(3)

月の雫』と言う生き物の培養液(28-3)
(『月の雫』以後、雫と省略)

父、祖父、その位置付け 

その数年後、村が開けてくると、町病院への交通手段も増え、診療所は閉鎖され、その女医先生も何処かへ行ってしまった。 

この頃、雫の父は仕事が遅かったりあちこちの仲間内で呑んだりしていて帰りはいつも遅く、帰宅後、子供に関わるということはあまりなかった。
父だけが特別な訳ではなくて、父の職業の人たちの日常はそれが当たり前のようだった。
7歳くらいまで、保育園と診療所の記憶はあるのに、雫には父母との幸せなスキンシップの記憶は殆どない。
日常、あまり接していないから当たり前といえば当たり前だが。 


でも、父は、正月など親戚縁者が集まった時に限って、それなりに成績良く賞状なども多かった雫を自慢話の引き合いに出した。
雫の父はそれ以外の時は、決して雫を褒める事がなかった。
まるでただの父の見栄とプライドの為の道具であるかのように、雫は父の都合のいい時だけ人前に引き摺り出され晒された。
この時ばかりは無理やり膝の上に座らされて、役目が済むと、「子供の寝る時間だから、早く寝なさい。」と追っ払われるのだった。 


ただ、父母とのコミュ二ケーションはなくとも、祖父が親代わりのように、教育や教養など様々な面で面倒を見ていた。
おかげで雫は小学校に入る前には読み書き、足し算や引き算ができた。
夜は毎夜、昔話やお伽話、祖父の体験など、興味深い話を眠くなるまで聞いた。
祖父は繰り返し強請(ねだ)る雫に嫌な顔ひとつせず、根気よく付き合ってくれた。
雫は毎日、夜、寝入る前の布団の中のお伽話を聞く時間が楽しみだった。

それだけでなく、夜間に雫が喘息発作を起こした時、雫を背中におぶってバイクにまたがり、真っ先に病院へ飛ばすのも祖父だった。
両親はというと、発作で苦しんでいる雫を別段気に留める様子もなく、「いつものことだから」と暢気に放っておく始末で、父は相変わらず晩酌に興じていた。
祖父はそんな二人を何度か叱り飛ばしたことがあった。
雫は家族の中で、両親とは比較にならないほど、祖父と過ごした時間が多く、雫のことを一番親身に気に掛けてくれたのも祖父だった。 


回りの人は冗談で、「おじいちゃんの子だ」と言ったが、本当に雫は祖父の子供のようであり、祖父が雫の父親のようだった。
それほど、雫にとって祖父は身近であり、逆に本来、密接な関係でなければならない父母との関係は希薄だったということだ。
(念を押すが、祖父と雫は親子ではない。) 


この頃、家の殆どの権限はまだまだ祖父にあり、大黒柱的存在も祖父だった。
家族は父を筆頭にして、何かを取り決める時も、行動する時も祖父に伺いを立てるのが常だった。
その状況はある意味、父が30歳をとうに過ぎたというのに、相変わらず自分を認めて貰えず親離れすることも許されない、できない、体の大きい息子のままの状況だった事を意味していた。 




(続きます) 


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TLTLE:居る場所

 






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培養液(2)

『月の雫』と言う生き物の培養液(28-2)
 (『月の雫』、以後、雫と省略)


保母さんと女医さん 


積もり積もった過労が影響してか、雫が3歳になった頃、雫の母は弟を生んだ後体調を崩し、それから雫が小2くらい迄何度も入退院を繰り返した。
つまり子供にとって一番大事な幼少女期時期に、一番身近な人として脳に記憶するべき母の存在が、雫には欠落しているのだった。 


3歳頃の写真が数枚あるが、その中に母や父に抱かれた写真はなかった。
たった一枚、雫が胸に抱き上げられて写っていた写真があったが、抱いているのは保育園の先生だった。
保育園と言うより託児所と言った方が正しいか。
雫の幼い頃の記憶に残っている人といえば、母や家族ではなく、この保育園の二人の女先生と、喘息の治療などの為に頻繁にお世話になっていた村外れの診療所の女医先生だった。 

雫の母は入院してからも、時々帰宅する事があったが、おそらく一時的な自宅療養のためか何かだったのだろう。あまり子供とは接していなかったようで、雫には母と顔を合わせてスキンシップをした記憶がなかった。
母の病が完治し退院して家に戻ってくるまでの(小2くらい)家族との時間より、この保母さん二人と女医さん、三人の女性と過ごす時間の方が多かった。 


保育園時代は、親の迎えで殆どの子供が帰宅してしまい、いつも雫は最後の一人になることが多かった。
そしてポツンと一人折り紙をやっているそんな雫を迎えにくるのは、母でも父でもなく、田畑仕事を終えた祖父母だったり、弟子だったりした。(父は職人で3~4人の弟子がいた。培養液(1)参照)
その迎えの時間まで、とてもよく雫の面倒を見てくれたのが雫の記憶に残る保母さんのうちの一人だ。 


でも、その保母さんは進級と同時に担当クラスが変った途端、雫が呼びかけても忙しそうに通り過ぎて行く様になった。
彼女が、「ごめんね。」と右手で雫を払うように足早に通り過ぎて行った映像が雫の脳裏に焼付いた。
雫はとても淋しい気持ちを覚えた。 


物分りのいい雫は、彼女が新たに面倒を見なければならない下のクラスの園児たちの先生で、自分の先生ではなくなったことを察した。
もう迷惑かけてはいけないのだ、頼ってはいけないのだと子供ながらに悟った。 


雫はしょっちゅう、保育園の敷地内にあった社宅にも入り浸っていた。
日曜ともなると訪れては、日本人形を作る手芸好きの副園長先生の手仕事に夢中になった。
手芸に使う布の美しさも魅力だった。
雫が帰るとき、その先生は、決まって、人形の着物に使った美しい和布のハギレを分けてくれた。
和服や帯用のその美しい布を貰えるのがとても嬉しかった。
でも、やがてその保育園は移転し、好きだった先生も何処かへ行ってしまった。 


もう一人、診療所の女医先生には、小学校へ入るまでも入ってから暫くの間も、ほぼ毎日お世話になっていた。
ちょっとした天候の変化や体調の変化で喘息の発作を起こすし、すぐ風邪を引くので、吸入やら注射やら薬やらでほぼ毎日お世話になっていた。 


小学校に上がってからは、治療に通ううち、雫はそこで患者さんの薬を包んだり(頓服のように、10センチ四方くらいの四角い紙で薬を包んでいた)、煮沸した器具を専用ピンセットで滅菌ケースに移す手伝いをしたりするようになった。 

先生は何かお手伝いする度にとても上手だと褒めてくれた。
長い時間そこに纏わり付くように存在しても、雫のことを邪魔にすることもなく、自分の子供のように接してくれた。
雫もそんな先生を母親のように慕い、すっかり甘え、特別な心象を抱いていたと思う。
雫の存在をしっかりと受け止めてくれる人といる、診療所での時間は楽しかった。
その映像は今でもはっきりと思い出せるのだった。 


ある時、診療所の奥の空間に女医先生の生活が存在することを知った。
家族がいて雫より小さい子供がいて、先生はその人達のお母さんであり、雫の母親ではないのだと気付いた。
それから雫はあまり長居しないようになった。 


その数年後、村が開けてくると、町病院への交通手段も増え、診療所は閉鎖され、その女医先生も何処かへ行ってしまった。 


(続きます) 





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TLTLE:命は混濁する培養液の中







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培養液(1)

『月の雫』と言う生き物の培養液(28-1)
(『月の雫』以後、雫と省略)

幼少期、母の不在、異物だらけの培養液 



雫は小さな村(部落)で生まれた。そこは、30戸ほどの小規模な開拓移民の村だった。
実に多地域の出身者が集まって独自の文化を持ち、それぞれの世帯を構えていた。
だから、日本語とはいえ、微妙なイントネーションや方言などの言葉も違えば、習慣的な食べ物も違った。
冠婚葬祭などのしきたりや神仏の祀り方も違った。
 
例えば近所の友達の家を訪れると、毎回行く所行く所、目にする物が初めてづくしだった。
分かり易く言うと、例えばお正月など、あちらの家はあんこ入りの餅だが、こちらの家は何も入っていない餅、あちらは丸餅だが、こちらは角餅と言ったように、まるで各々の家に郷土料理があるようだった。
『隣りの家はよその県』と思って頂くと分かり易いだろう。

村も年月を重ねると、ご近所付き合いが進むにつれお互いの理解も進み、それぞれの文化が融合し新しい文化となり、世代を重ねるにつれ定着していった。
冠婚葬祭業者が介入してきた事もあって、文化も村独自というより、都会の情報に倣った一般的な方法に統一されていった。 


村は、その殆どの家が専業農家だった。
その中で雫の家は数少ない兼業農家だった。

父は職人で3~4人の弟子を持っていた。
その頃は祖父母も健在で、まだ結婚していない、父の3人の姉弟が同居していた。
大人だけで約10人、それに雫と弟、多分その下に妹が生まれた頃もまだ、この家族編成だったようである。
少なくとも総勢12人以上の大所帯だった。
それは普通の家庭とは日々の生活も随分違っていた。 


雫が小3くらいまで、父の姉弟はまだ結婚していなかったのでこの家族編成が続いたが、そんな大家族の中にありながら、小2くらい迄の雫の記憶の中には、母の存在の記憶が無かった。

雫の母は嫁いでから一日の大半は大家族の炊事や田畑の労働に駆り出されていた。
雫が生まれてからもその生活は育児が加わったというのに、変わることはなかった。

積もり積もった過労が影響してか、雫が3歳になった頃、雫の母は弟を生んだ後体調を崩し、それから雫が小2くらい迄何度も入退院を繰り返した。
つまり子供にとって一番大事な幼少女期時期に、一番身近な人として脳に記憶するべき母の存在が、雫には欠落しているのだった。 





(続きます)






200881172251.JPGTLTLE:異物だらけの培養液の中

 

 


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